防長風土注進案
勝山合戦乃記
勝山城陥落

 天文二十三年三月一日、陶晴賢は大内義長と共に山口を出発
津和野に向かって進撃を開始した。
 同日大内義長を本体として渡川(現阿東町)に駐屯、翌二日晴賢
は嘉年勝山城に向かった。勝山城には、吉見家重代の老臣であり
前三本松城主隆頼の聟である波多野滋信、秀信父子が拠り、昨年
来嘉年城に配されて殊勲のあった下瀬頼定が加わって備えていた。
勝山城南の小山(後に陶殿の陣という)に陣取った陶晴賢をはじめ
陶軍の配陣は、城西の岩枯山に糟屋、井坂の八幡山(茶臼山)に
弘中三河守、城東の和田山には三浦越中守が配置され、吹野嘉年
坂方面や津和野から来る吉見勢の援軍との応戦に備えた。 
 勝山城から進撃して出た吉見勢は、晴賢の陣へは波多野秀信、
都野兵庫、羽隅弥兵衛、日迫左近尉、遠田式部等が向かい、滋信は
川を隔てた東の三浦越中守との合戦を交えた。城の北表に押し寄せ
た弘中三河守には、尾野守道源十郎、山根権頭、斉藤九郎右衛門、
片山蔵人、がこれに対し邀え撃った。
三本松より援軍として来た吉見備前守範弘も在城して戦った。 
 城は要害堅固で、矢合戦ばかりでなく、城中に備えられた大木、
石弓等によって激しい攻防が続けられたが、田中次郎兵衛の陶方
寝返りによって、敵兵が侵入し放火したため、翌三月三日、遂に落城
して城主滋信をはじめ範弘等ほとんど自害、戦死によって落城の悲運
に至った。
 その後、さらに続く三本松城包囲の中に五ケ月余の長い籠城戦を
することになるのである。・・・・・・・

出典:物語の里 嘉年(かね)
    津和野町史(第一巻)
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